知られざる バチカン・ローマ法王の「聖書預言」ハルマゲドンへの挑戦とは
サン・ピエトロ大聖堂 バチカン

ヨハネ・パウロ2世ローマ法王は1978年10月の法王就任から現在にいたるまで異常なくらい意欲的な猛烈な旅をしている。

1979年
1月  最初の外国司牧的訪問、サント・ドミンゴ、メキシコ、バハマへ
6月  第2回外国司牧的訪問、ポーランドへ
9月  第3回外国司牧的訪問、アイルランドへ、米国へ
11月 第4回外国司牧的訪問、トルコへ

1980年
5月  第6回外国司牧的訪問、フランスへ
6月  第7回外国司牧的訪問、ブラジルへ
11月 第8回外国司牧的訪問、東ドイツへ

1981年
1月  ポーランド、連帯のワレサ議長が教皇を訪問、会談
2月  第9回外国司牧的訪問、フィリッピン、グアム、日本、アンカレッジへ
5月  KGBの手先、メヘメット・アリ・アグカが教皇を襲撃、教皇22日間の入院

1982年
2月  最初のアフリカ諸国訪問、ナイジェリア、ベニン、ガボン、赤道ギニアへ
5月  第12回外国司牧的訪問、英国へ、英国国教会のロバート・ランシー総司教と会見
6月  外国司牧的訪問、アルゼンチンへ

10月 第16回外国司牧的訪問、スペインへ、アヴィラの聖テレジア没後400年祭に出席
11月 救世の聖年宣言

1983年
3月  第17回外国司牧的訪問、コスタリカ、ニカラグア、パナマ、エルサルバトル、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、ハイチへ
6月  第2回目のポーランド訪問
8月  ルルド訪問

9月  第20回外国司牧的訪問、オーストリアへ
12月 教皇、暗殺未遂犯人アリ・アグカに会うために、レビッビア刑務所を訪問

1984年
5月  第21回外国司牧的訪問、韓国、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、タイへ
6月  第22回外国司牧的訪問、スイスへ
9月  第23回外国司牧的訪問、カナダへ
10月 第24回外国司牧的訪問、スペイン、サント・ドミンゴ、ドミニカ共和国、サン・ファン、プエルトリコへ

1985年
1月  第25回外国司牧的訪問、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、トリニダート・トバコへ
3月  ローマで第1回世界青年の日に出席
8月  第27回外国司牧的訪問、トーゴー、コートジボワール、カメルーン、中央アフリカ共和国、ザイール、ケニヤ、モロッコへ

1986年
1月  第29回外国司牧的訪問、インドへ
7月  第30回外国司牧的訪問、コロンビア、サンタルチアへ
10月 第31回外国司牧的訪問、フランス(東部、中部)へ
10月 イタリア、アッシジで「世界平和のための祈り」に出席
11月 第32回外国司牧的訪問、バングラデッシュ、シンガポール、フィジー諸島、ニュージーランド、オーストラリア、セイシェル諸島へ

1987年
3月  第33回外国司牧的訪問、ウルグアイ、チリ、アルゼンチンへ
4月  第34回外国司牧的訪問、西ドイツへ
6月  アメリカ大統領、ロナルド・レーガンがバチカンを公式訪問
6月  ポーランド訪問
7月  米国、フォート・シンプソン(カナダ)へ

1988年
5月  第37回外国司牧的訪問、ウルグアイ、ボリビア、パラグアイ、リマへ
6月  第38回外国司牧的訪問、オーストラリアへ
9月  第39回外国司牧的訪問、ジンバブエ、レソト、ボツアナ、モザンビークへ
10月 第40回外国司牧的訪問、ストラスブールのヨーロッパ会議、メッツ、ナンシーへ

1989年
4月  第41回外国司牧的訪問、マダガスカル、ラレユニオン島、ザンビア、マラアウイへ
5月  アメリカ大統領ジョージ・ブッシュのバチカン公式訪問
6月  第42回外国司牧的訪問、ノルウエー、フィンランド、アイスランド、デンマーク、スエーデンへ
8月  世界青年の日のために、スペイン、サンチャゴ・デ・コンポステラを訪問
10月 韓国、インドネシア、モーリタニアへ
12月 ソ連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフの訪問

1990年
1月  第45回外国司牧的訪問、ギニアビサウ、マリ、ブルキナファソ、チャドへ
4月  第46回外国司牧的訪問、メキシコへ
5月  第47回外国司牧的訪問、マルタへ
9月  第48回外国司牧的訪問、タンザニア、ブルンジ、ルワンダ、コートジボワールへ

1991年
1月  第8の回勅、”Redemptoris missio”(救世主の使命について)
5月  第50回外国司牧的訪問、ポルトガルへ
6月  第4回目のポーランド訪問
8月  ポーランド、チェストホヴァで世界青年の日に主席
10月 ブラジル訪問
11月 ヨーロッパ特別シノドス

1992年
1月  聖座ロシア国家連合を承認
2月  第54回外国司牧的訪問、セネガル、ザンビア、ギニアへ
6月  外国司牧的訪問、アンゴラへ
10月 アメリカ宣教500周年記念のためにサント・ドミンゴへの司牧的訪問、第4回ラテンアメリカ司教会議総会に参加

1993年
2月  ベニン、ウガンダ、ハルトームへ
4月  アルバニアへ
6月  スペインへ
8月  第60回外国司牧的訪問、ジャマイカへ
     第8回世界青年の日のために米国、デンヴァーへ
9月  バルト3国、リトアニア、エストニア、ラトヴィアへ

1994年
1月  教皇庁立 科学アカデミー設立
2月  教皇庁立 生命のためのアカデミー設立 
9月  外国司牧的訪問、クロアチア、ザグレブを訪問

1995年
1月  第63回外国司牧的訪問、パプアニューギニア、オーストラリア、スリランカ、マニラへ
     第10回世界青年の日
5月  チェコ共和国訪問
6月  ベルギー訪問
6月  コンスタンチノーブル総主教バルトロメオ1世、バチカンを訪問
6月  スロバキア共和国を訪問
9月  カメルーン、南アフリカ、ケニアを訪問 アフリカ・シノドスに関する使徒的勧告
10月 第68回外国司牧的訪問、米国へ
     これまでの旅行百万キロを突破、ニューヨーク国連総会で演説

1996年
2月  第69回外国司牧的訪問、グアテマラ、ニカラグア、エルサルバトル、ベネズエラへ
4月  第70回外国司牧的訪問、チェニジアへ
5月  第71回外国司牧的訪問、スロヴェニアへ
6月  第72回外国司牧的訪問、ドイツ、ベルリンへ ヨーロッパのための新しいシノドスを告知
9月  第73回外国司牧的訪問、ハンガリーへ
9月  第74回外国司牧的訪問、フランスへ
11月 フィデル・カストロ、キューバ大統領の私的訪問を受ける
12月 英国国教会の総司教Dr.Careyの訪問を受ける

1997年
4月  サラエボを訪問
4月  聖アダルベルト死没千年記念の機会にチェコ共和国を訪問
5月  レバノン訪問
5月  第6回目のポーランド訪問
6月  パレスチナ主権についてイスラエル首相および大統領に書簡を送られる
8月  世界青年の日、第12回大会のためにフランスを訪問
9月  第23回聖体大会のためにイタリア、ボローニャを訪問
10月 第80回外国司牧的訪問、ブラジルへ
11月 アメリカのための特別シノドス

1989年
1月  キューバ訪問
3月  第82回外国司牧的訪問、ナイジェリアへ
5月  聖骸布崇敬のためにイタリア、トリノを訪問
6月  第83回外国司牧的訪問、オーストリアへ
10月 教皇選出第20周年記念日


(以下略)
 上記のように、20世紀末に、ローマ法王は異常なくらい意欲的で、猛烈に世界中を駆けめぐる旅をしている。
この猛烈な世界平和のための旅は何故行われたのか?
ことの始まり、すべての原因は「ファティマの第3の預言」に大きく関わっていた。
 

 1917年7月13日、第3回目のマリア出現時に「ファティマの第3の預言」は為された。その預言は「あまりにも重要なので、1960年まで公開してはならない」とルチアがマリアに厳命されていた。
 1942年になって、(1)1960年まで公開してはならない(2)確実に法王のもとで保管されること、を条件にルチアによって執筆され、厳重に封印された第3の預言は、駐ポルトガル大使の手によって、直接バチカンへと運ばれた。
 そして、1960年になって、当時の法王ヨハネ23世は検邪聖省(現在の教理省)長官オッタビアーニ枢機卿とともに二人で第3の預言の封印を解き、内容に目を通したとされる。しかし預言書は改めて封印され、検邪聖省の文書保管所にしまい込まれる。
 その後継法王であるパウロ6世もまた、第3の預言を読んでおり、内容を読んで失神して椅子から転げ落ちそうになったと言われる。「これは公表すべきではない。私が墓の中までもって行かねばならない。」と言ったとされる。
 これ以降も法王庁によって法王のみが知り得る文書として第3の預言は封印されたままになっているのである。

 法王ヨハネ23世は、世界平和を呼びかけた法王として、国際的に極めて高く評価されている。なかでも人類史上最大の核戦争の危機、いわゆる1962年の「キューバ危機の回避に当たって、法王が為した貢献は大きい。まさに一触即発の時にソ連のフルシチョフ首相、アメリカのケネディ大統領にラジオを通じてメッセージを送った。「教会は人々の間の平和と友愛を何にもまさって心がけており、・・・平和への厳粛な切望を繰り返す。人類のこの叫びに耳をふさがないよう、私はすべての統治者に懇願する。平和を維持するため、各政府は全力を尽くして欲しい・・・」
 のちにフルシチョフ首相は「自制を望む法王の訴えが私の考慮の中で相当大きな重みを持った」と語っている。
 ヨハネ23世のこの行動が、ファティマの預言に基づくものならば、まさに人類滅亡の時に、聖母マリアの預言が功奏したことになる。
1960年まで預言を封印することの意義は、聖母マリアが1962年の人類史上最大の危機をあらかじめ知っており、その預言を風化させないためだったのである。
 ヨハネ23世の言動で最大のものは「第2バチカン公会議」の開催決定である。
1、教会の刷新、いわゆるエキュメニカル(キリスト教統一主義運動)の推進(全キリスト者の再一致統合、教会一致)
2,信教の自由についてキリスト以外のイスラム、仏教などを基本的に神の啓示として認める方向で、連帯することを決定した。これはキリスト教にとって革命的である。(非カトリックとの協力の訴え、創造主信仰、唯一絶対の一神教の修正)
3,諸国のあらゆる現代戦争に無条件に反対し、軍備撤廃を強力に要求し、世界の恒久的平和を実現するための制度的な措置として、世界共同体を形成する重要性を強調した。

バチカン公会議はパウロ6世によって承継され、続行される。ファティマの第3の預言を知ったパウロ6世はバチカン公会議の精神を実現し、エルサレムのオリーブの丘で、ギリシャ正教の総大司教アテナゴラスと歴史的な和解を行い。900年に亘る教会分裂に終止符をうった。
パウロ6世

そして上記の現ヨハネ・パウロ2世の行動。世界中を駆けめぐる驚異的な世界平和活動。聖書預言中「終末の原因」たる、ソ連等共産主義国の崩壊の影の立て役者。第2バチカン公会議の決定の成就こそ、彼の戴冠にあたっての決意表明であった。キリスト教の教義である排他的一神教の修正等のヨハネ23世以来の、宗教革命の継続と、さらなる宗教革命の実現。


ローマ法王による聖書預言の地球滅亡を回避するための最大限の尽力である。預言の破壊のためにローマ法王は世界中を飛び回り、レーガン大統領、ゴルバチョフ書記長(当時)等、世界中の政治的指導者と会い世界平和に多大な努力を惜しまなかった。ノストラダムスにも預言された世紀末のハルマゲドンはこうして回避・延期されたのか。・・・充分あり得ることだろう。
1982年5月13日ファティマの祝日に群衆に語りかけるヨハネ・パウロ2世









参考文献 :
石田行夫著 ファティマ聖母の光績 文芸社






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