聖書史実の真実性を考古学が証明した!
旧約聖書記載の歴史的事件を考古学の発見が完全に裏付けた!





アッシリアの王セナケリブが残した記録「ティーラ-・プリズム」(大英博物館)

高さ38cmの中空の六角形で、その全面に楔形文字が刻まれている。
1830年イギリス人のティーラー大佐がニネヴェで入手したので「ティ−ラー・プリズム」と呼ばれている。
 










シロアム碑文:古代ヘブライ語で記されている(イスタンブール考古学博物館)








ユダの国王:ヒゼキヤ   アッシリアの国王:セナケリブ


 紀元前701年、アッシリア帝国の王セナケリブ(前705年−前681年)はユダの国を攻撃した。この事件に関して、幸いアッシリア帝国の楔形文字の記録「ティラー・プリズム」(上記写真)、および「シロアム碑文」(上記写真)の記録など、又多くの考古学的発見により、旧約聖書の記載事項の詳細にわたる信憑性が完全に裏付けられた。


 当時アッシリア帝国では国王セナケリブが帝国内の各地の反乱に見舞われていた。ユダヤの王ヒゼキヤもパレスチナの諸国やエジプトと手を組み、アッシリアに対抗していた。アッシリアのサルゴン二世の死後、セナケリブは王を即位し、帝国を安定させると、701年に反抗するパレスチナへ軍隊を南下させたアッシリア側の記録「ティ−ラー・プリズム」によればセナケリブのの進路は次のようになる。彼はフェニキアを攻めたのち、アフェク、ベト、ダゴン、ヨッファ、ベネ、ベラク、アゾル、シドキアの町々を奪い、最終目標はユダの王ヒゼキヤであった。
「ティ−ラー・プリズム」に次の記載がある。「私に服従しなかったユダヤ人ヒゼキヤに関して言えば、私は土地に傾斜地を設け、攻囲兵器と坑道を掘り突破し、攻城する歩兵の攻撃とによって彼の26の城壁のある町々とそれを囲む無数の小さな村落を包囲し征服した。(セナケリブ碑文V:11以下) この部分の旧約聖書の記載を見てみよう。「ヒゼキヤ王の第14年に、アッシリアの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これをとった。(第2列王記18章13節)
 この時、セナケリブはエルサレムから南西約50Kmのラキシュに本陣を置いていた。このラキッシュを攻撃した時の様子は、ニネヴェにあるセナケリブの王宮の壁に彫られたレリーフ(浮き彫り)によってあまりにも有名だ。

ラキッシュを攻撃する投石兵(大英博物館)

このようなアッシリア王セナケリブの包囲攻撃に備えてユダの王ヒゼキヤはエルサレム防備のために準備を進めている。城壁を直し、やぐらを建てダビデの町を強固な要塞にした。その中でも特筆すべきことは有名な「ヒゼキヤ王のトンネル工事」である。それは、「ギボンの泉」から涌き出る水をセナケリブに利用されないように隠して、城内までトンネルを掘って引き入れることであった。旧約聖書には次のように書かれている。

 「ヒゼキヤは、セナケリブが攻め入って、エルサレムに向かって戦おうとしているのを見たので、彼のつかさ達、勇士達たちと相談をし、この町の外にある(ギホンの)泉の水をふさごうとした。彼らは王を支持した。そこで多くの民が集まり、すべての泉とこの地を流れている川をふさいでいった。「アッシリアの王たちに、攻め入らせ豊富な水を見つけさせてなるものか」(第2歴代誌32章2-4節)
















シロアムの池
ヒゼキアのトンネル











 このようなヒゼキヤのトンネル工事が考古学的に確認されたのは、1880年の「シロアムの碑文」のは発見によってであった。その碑文はシロアムの池に水を注いでいるトンネルに少し分け入った岸壁に古代ヘブル文字で刻まれていた。他の古代ヘブル文字の文書が発見されて、この碑文の書体がヒゼキヤの時代に属することが確認されている。
 その碑文には、二手に分かれたグループが両端から掘り進んで行き、どのように岸壁をくり貫き、貫通させることに成功したのかが記録されていた。「貫通した日、石工たちは、たがいに相手の方向に向かってピックをかわして掘っていた。すると水が泉から池の方向に、1200キュビトにわたって流れ出した。石工たちの岩の高さは100キュビトあった」と碑文は記録している。彼らは最終段階でたがいの岩をたたく音を聞きながら掘るべき方向を定めていったのだ。ユダヤのヒゼキヤとアッシリアのセナケリブはこのように応戦体制を整える一方、ヒゼキヤはラキシュにいたセナケリブに貢物を納めて戦いを逃れようとしている。

 旧約聖書にその様子が次のように記されている。「ユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリア王のところに人をやって言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げて下さい.。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから」 そこで、アッシリアの王は銀300タランと、金30タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した」(第2列王記18章14-16節)

 このことは「ティ−ラー・プリズム」にもヒゼキヤが納めた貢物リストとして残されていた。「彼(ヒゼキヤ)は、私の首都ニネヴェの私のもとへ金30タラント、銀800タラント、最良のアンチモニー、赤石の大きな塊、象牙装飾の寝台、象牙装飾の肘掛椅子、象の皮革、象の牙、黒檀、つげ材、あらゆる種類の高価な財宝、そして彼の娘たち、宮殿の婦人たち、男女の歌い手を献上してきた。彼は貢物を送り私に敬意を現すために使いをよこした」
 ここには両者に若干の違いがあるが、互いに敵同士なので事実に対しての評価が異なるのであろう。

 ユダヤのヒゼキヤ王から貢物を受け取っただけではアッシリアのセナケブリは満足せず、彼は逆に司令官ラブシャケとともに大軍をエルサレムに派遣してエルサレムを包囲してヒゼキヤの完全降伏をせまった。このようなアッシリアの高圧的な包囲に対して、ユダの預言者イザヤは次のように預言していた。
 

預言者イザヤ(1404年クラウス・スティールによるイザヤ像:シャンモルのカルトォジオ修道院のモーセの井戸にある)




『主(神)はこうおおせられる。「今、私は彼(セナケリブ)のうちにひとつの霊を入れる。彼(セナケリブ)は、あるうわさを聞いて自分の国に引き揚げる。私はその国で彼(セナケリブ)を剣で倒す」』第2列王記19章6−7節

 ここでアッシリア軍は「あるうわさ」を聞いて撤退したといわれている。そのうわさとはおそらくエジプト軍が援軍を送ったといううわさであろう。聖書には王は、クシュの王ティルハカにについて今、彼はあなたと戦うために出てきている』ということを聞いた」と書いてあるからである。このティルハカとは、エジプト第25王朝のタハルカ(前609−前664)のことである。(エジプト語THRK→旧約へブル語TRHK:アナグラム) この時、エジプト軍は同盟国であるパレスチナ諸国を助けるために軍隊を送った。アッシリアのセナケリブがラキシュで軍勢を二分し、一方はセナケリブに導かれてりブナを攻撃し、もう一方はラブシャケに導かれてエルサレムを攻撃したとき、ティルハカはアッシリアを攻撃するチャンスと考えた。これこそ預言者イザヤが預言した「うわさ」であろう。このうわさを聞いて、ラブシャケはエルサレムの包囲をといてリブナの方へ向かったのである。アッシリア軍の合流は速やかに進んだため、ティルハカは攻撃のチャンスを失いエジプトに引き上げていった。

エジプトの王ティルハカ


守護神の鷹に祈りを捧げるティルハカ(ルーブル美術館)






 しかしそれはエルサレムの危機が去ったことを意味しなかった。エジプト軍が去った今こそアッシリア軍が総力を挙げてエルサレムを攻撃してくることは明白であった。
しかし預言者イザヤはアッシリア軍について次のように預言している。「アッシリアの王について、主はこうおおせられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾を持ってせまらず、砦を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町に入らない」(第2列王記19章32−34節)

 この預言の言葉は、だれにとっても信じがたいものであった。しかし事実、セナケリブは侵入してこなかったのである。それは聖書の記述とセナケリブ自身の記述によって裏付けされている。まず聖書の記録を見てみよう。

 「その夜、主の使いが出ていって、アッシリアの陣営で、18万5000人を打ち殺した。人々が翌朝、早く起きてみると、なんと彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。
ここでは、「主の使いのわざ」と書いてあるだけで、具体的に何があったのか分からない。しかしまったく予期しない何かがおきてアッシリア軍は撤退したのである。

 一方、セナケリブの残した「ティーラー・プリズム」にはこう記るされていた。
ユダヤ人ヒゼキヤに関していえば、私は彼の46の城壁のある町々とそれらを囲む無数の小さな村落を包囲し征服した。私は戦利品として、そこからあらゆる階層の20万150人、男女、馬、らば、ろば、らくだ、牛、羊を連れてきて、数え上げた。彼自身(ヒゼキヤ)は、私が王都エルサレムに篭(かご)の中の鳥のように閉じこめた。私は彼を見張り所で取り囲み、誰も彼の町に出入りが出来ないようにした。・・・彼(ヒゼキア)は私のところに、私の王都ニネヴェに、金30タラント、銀800タラント、最良のアンチモニー巨大な赤い石の塊、象牙の装飾の寝台・・・を持ってきた。彼は貢ぎ物を払い、敬意を表するために彼の使者を送った。
 このセナケブリの記録は注目にあたいする。セナケブリはエルサレムを包囲し、誰も出入りが出来ないようにしたにもかかわらず、それ以上のことは書いていない。ほかの46の町々を包囲をし、征服し、略奪したと記録したにもかかわらず、エルサレムについてはヒゼキヤを「篭(かご)の鳥のように」したとだけ記録している。しかも最後のところは、ヒゼキヤが貢ぎ物を持ってきたのは、セナケブリの首都「ニネヴェ」であったと書かれている。言い換えれば、セナケリブはエルサレムを攻略し、略奪して戦利品として貢ぎ物をもたらしたのではないのである。このことは明らかに彼がエルサレム攻略に失敗したことを告白している。セナケリブにとって、これは屈辱的な大敗であってそれを後代への記録として残すことはしなかったのである。これは権力者の記録の常道である。

 聖書の記述も、セナケリブの記述も、そこで何が起きたのかは伝えていない。しかし、セナケリブの陣営に何かが突然発生し、彼は退却を余儀なくされたのである。それは疫病であったのかもしれない。または神の御わざといわれる別のパワーが働いたのかもしれない。


 

その夜、主の使いが出て、アッシリアの陣営18万5000人を撃ち殺した。人々が朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。(第2列王記19:35)

救いはエジプトからではなく、神から来た。神の全能の象徴である「死の使い」がアッシリアの陣営を襲う。左図は悪魔と戦う天使を描いたP・ブリューゲルの作(15世紀、ブリュッセル美術館) この戦争について書いたヘロドトスの報告から推測出来るように、ねずみによって伝染させられたペストに原因があったのかもしれない。セナケブリは聖書の述べるように(U王19:37)、彼の息子の1人によって殺害された。しかしこの出来事は、ニネベに帰還して20年後のことである。




























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参考文献:聖書の考古学 鞭木由行 newton press






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