ポンマンの聖母出現

 1858年のルルドの出来事と比較すると、ポンマンの聖母出現ははるかに地味な出来事であった。その後の巡礼の規模もルルドの十分の一以下(年間10-30万人)である。ポンマンは、ノルマンディとブルターニュにかこまれたロワール地方マイエンヌに属する人口2239名(1979年)の村落。1871年当時は15軒ほどの家とおよそ80名の住民からなる小集落にすぎなかった。普仏戦争(1870年/7月-1871年/1月)の波が徐々にこの地方を脅かしはじめていた同年1月17日の夕刻、この村の空に不思議な出来事が生じた。数人の子供たちの目に天空の「蒼い服の女性」が3時間にわたって出現し、無言のまま文字によるメッセージを伝えたのである

 初めに空の異変に気がついたのは、バルブデッド家のユジェーヌ(1858-1927 当時12歳)だった。日課である馬の世話を父セザールと弟ジョセフ(1860-1930 当時10歳)の3人でしていたところ、知人が戦地の知らせを持って納屋を訪れた。異父兄弟のオーギュスト・フリトーは戦地にあり、その安否がバルブデット家の心配の種になっていた。話の最中にユジェーヌは、1週間ほど前に付近一帯をおおいつくしたオーロラ現象(1・11)を思い起こして、雪一面の外に出て見たという。すると不思議なものが見えた。道路をはさんで納屋の向かいにあるギドコック家の上約6メートルのところに、金の星をちりばめた蒼色の服があり、美しい婦人が両手を下げ加減に広げて迎えるしぐさで微笑んでいる。月はないが星は出ていた。四半時もたって弟のジョセフがこれに加わって、やはり見えるという。ところが納屋からジョセフと出てきた父親には何も見えない。母屋から呼ばれてきた母ヴィクトワールにも見えない。「きれいだよ。きれいだよ」と繰り返しながら手をうつジョセフを制止すると、母親は子供らを納屋に追返してしまった。 
 以上がことの発端だった。この段階では、「証人」はバルブデッド家の4人に限られる。納屋の仕事をかたずけ終わってから母屋で夕食を済ませ、再び納屋に戻ると「前のままだ」と子供たちがいう。「シスター・ヴィタリヌくらいの大きさだ(165cm)」というのを聞いた母親は、あるいはと、ユジーヌをつれてシスターの小学校へ向かう。その間ジョセフは父親と納屋の前に残っていた。
 シスターには見えるだろうと言う母の期待は裏切られたが、一挙に証人が集まり、最終的には約50名、ポンマン住民の約三分の二が顔をそろえた。ここまでの段階では、空の「青い服の女性」は子供たちに微笑みかけるばかりで何のメッセージも与えていない。身元も伝えていない。子供たちの説明によって、靴まで垂れ下がる星印の蒼いチュニック、金のリボンの蒼い靴、髪をおおう黒の長いヴェール、末広がりの円筒形の帽子といった衣装の様子が人々に知らされるだけである。

 群集の前で「この女性」の形象に変化があらわれた。蒼い楕円が後光のようにこれを包囲すると、中に4本の蝋燭(ろうそく)が肩と膝(ひざ)の高さに2本ずつ現れ、続いて「女性」の胸に小さな赤い十字架が生じた。「祈ろう」という司祭の言葉に促されるように形象全体が伸張拡大し、約1.5倍の大きさになった。
群集と女性との間で、相互コミュニケーションの場が発生している。
 
 ポンマンのメセージの伝達形式は、他の聖母出現に見られない特異性をもっている。出現主体は無言のまま文字による伝達が行われた。子供たちはメッセージを聞いたのではなく、時間を追って次々に現れてくるアルファベットの1文字1文字を「読んだ」のである。群集の祈りの中で「女性」の足下とギドコック家の屋根との間に白い帯状の幕が現れた。縦幅約1m、ちょうど屋根の両端の煙突をつなぐ、長さ10-12mの幕である。そこに、左端から、金色の大文字の活字体がひとつひとつ現れて文章を作っていった。


(1行目)
MAIS PRIEZ MIES ENFANTS DIEU VOUS EXAUCERA EN PEU DE TEMPS (さあ祈りなさい 子供たち 神はまもなくあなた方の願いを叶えるでしょう)

(2行目)
MON FILS SE LAISSE TOUCHER (わが息子は心を動かされます)


最終的に上のような文章を構成していった文字の出現は、遅々とした進行速度で行われた。冒頭のM・A・I・Sで約10分、E・N・F・A・N・T・Sまででさらに3-4分が費やされた。INというように1文字が完成される過程で、4人の子供たちが競うように「M」「A」とつづりを判読し、人々がそこに何らかの有意義な単語を認めて文章を理解する手順である。たとえば、冒頭の4文字M・A・I・Sは、次に続く文脈からみて人々に驚きを与え、群衆による再三再四の確認がメッセージの途中で繰り返されたという。

 この段階では、なお曖昧(あいまい)な「女性」の存在がほぼ確定したのは、次にくるメッセージの冒頭の単語によるものであった。「わが息子」のくだりで「やはり聖母だ」という声が群衆の中からあがった。
 断片的に浮遊していた「聖母」表象がメッセージの伝達解読過程をへて、「神は・・・」から「わが息子」の1節で定着の根拠を得るにいたる。群衆は静かな祈りに入るのである。

この時点で、司祭やシスターに見えぬ存在が子供らに見えるはずがないと考えたマリエット・ギドコックが自分の家の屋根と空を調べに行くが、この行動は、家の前で足が動かなくなるという、後で不信人者の回心のエピソードを生むことになった。

 しかしポンマン奇跡の完成にはなお少し時間経過を必要としていた。すなわちメッセージの「神はまもなくあなた方の願いを叶えるでしょう」の実現である。

 人々の聖歌に合わせて、ほほえみつつ指を動かしていた聖母の表情が哀しげに変わると、赤い磔刑のキリスト像をともなう大きな十字架(40−60CM)がその手に現れた。星が移動して4本の蝋燭(ろうそく)に点火して回り、赤い十字架が消えて元の姿勢に戻ったところで、大きな白いベールが下の方から徐々に聖母をおおいはじめ、最期に残った被りもの、星、蝋燭(ろうそく)、蒼の楕円が同時に消失したときは、夜9時頃になっていた。



5日後の1月22日、ラヴェル迫っていたプロシア軍が突如として「退却」を開始した。1月28日、休戦協定が結ばれる。遅れて4月初旬、ポンマン小教区から徴兵された38名の戦士の無事の帰還は、聖母の恩寵説をいっそう強化する役割を果たした。

同年6月17日、天祐感謝の盛大なミサが行われ、聖母を称える兵士たちによる碑が教会に残されることになった。





















1871年のボンマン





参考文献 関 一敏 聖母の出現 日本エディタースクール出版部


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